西福寺の由緒
『尾張徇行記』によれば、西福寺の濫觴(らんしょう)は、淳和天皇の時代、天長四年(八二七年)に弘法大師が熱田神宮における神夢によって沢邑に三ヶ寺を造立し、そのうち一番大きな澤(さわ)の辺りに建立されたと伝えられています。その開基の詳細については不明ですが、当時は天台真言宗西福寺と伝えられています。
中興の開基は専勝という僧侶です。専勝は、天文十一年(一五四二年)、大阪の河内国讃良郡に生まれ、幼児期に見た聖徳太子の夢のお告げに導かれて僧侶となり、高野山金剛峰寺で修業しました。永禄三年(一五六〇年)春、大坂本願寺の顕如上人(本願寺第十一代)に帰依し、その直弟子となり、その後尾張の国に来て、御器所村の城主である佐久間信盛(織田信長重臣)と親しくなり、西福寺の住職となりました。 永禄五年(一五六二年)、弘法大師の時代より真言宗であった西福寺は、専勝の代より山号を大澤山と号し浄土真宗に改宗したのです。
その後、天正八年(一五八〇年)、戦乱の兵火にかかり焼失し、小さな庵を結んで教化活動に勤しみ、元禄三年(一六九〇年)五代目住職智伝が本堂を再建しました。
また、泰心公(尾張藩主第三代徳川綱誠)が鷹狩に西福寺を訪れた際、その景観を賞賛して、智伝に由緒をお尋ねになった上、御真筆にて大澤山の山号額を授与くださいました。
現在の本堂は明治一二年(一八七九年)十五代目住職道本が建立し、歴代住職が崇敬護持してきたものです。ちなみに現住職(愛知宗麿 法名釋暢宗)は西福寺が浄土真宗の寺院となって十九代目にあたります。